心の日記。

自分への定期報告

クソリプは本当に悪なのか?

まーた期間があいてしまった。最後の更新は約二か月前か。

イベント終わった後に色々感じたことあったから、11月初旬に書いとけばよかった。気持ちが落ち着いてからではメモするにはもう遅い・・・。
題は2に関連付けてます


昨日、数年ぶりに会った友人と話した。
彼女は私と違って、人生がうまくいっているタイプ。・・・というのは具体的にいうと、友達ともよく遊ぶし、仲間同士の輪も大切にする。休日は友達と出かける。
数年前に会話したときは、それに対して遊びにいくグループがない自分に劣等感を抱いていた。
しかしグループで仲良くなれそうだと思うとどうしてもガラガラと崩れていくみたい。たぶん私のコミュニケーションの仕方では、周りの輪を保てないんだと思う。だから私はもうあきらめて1対1のコミュニケーションをとることにする。人には人の交流の仕方がある。
仕事上、チームを組む時は別に普通にしてればいいのだから・・・。
友達がいないと思っていたけれど、なんとなくいる。私は世の中で捨てられた存在ではない。そんな気がする。恋愛の話をしない女二人飲みというのは大変新鮮で、よかった。周りであったどうでもいいこと、できごと、これをだらだら語るのが一番幸せだなぁ。そんな話の話題を引き出すために私はこれからもいろいろな行動をして、それに対して「考え」を持つべき。そして言葉に出して語り合う。


嫌な人は、嫌だとクソリプを送ってないで存在を無視すればいい。

ネットではクソリプを送る人(例えば二次創作をしている人に対して地雷だとわざわざ送り付ける人がいたり)は文字通りクソだとされている。
ネットなんて自分が選り好みできる世界で成り立っているのだから、わざわざヘイトをためる必要なんかない。
しかし現実はどうだろうか。嫌でも無視できない場所がある。学校のクラス、バイトの従業員、サークルのメンバー。長期的にかかわる人である。
私はネットと同じような方法で嫌な人には極力目を背け、その人に備わる嫌な部分を無視しようとしていた。
だがいくら目を背けてみても、視界にはいる。ウイルスのように脳内に侵入し、ストレスが膨れ上がる。
どうしたらいいか。数日悩んだ。
私は・・・。もう少し人と向き合う必要があるのかもしれない。
嫌なことは嫌だと伝えるのもコミュニケーションだ。むしろ、嫌な部分を伝え、お互い補完していくことがいいことなのかもしれない。
これは私自身が感じたことだけど、遅刻しても、何も言わない「大丈夫~!」と笑顔でいう人は信頼できない。相手が私を叱らないことで逆に距離があいていると感じる。だから、私もその人に何も言えない。そしてその人は注意されることなく、成長しない。本当にその人は一年前から注意されることがない。優しすぎるのだ。
これと同じようなことが私にも起きているのではないか。私が言わないことで、言われない。だから成長しない。これはとてももったいない機会損失なのではないか・・?
と合理的に考えて、もっと人と向き合う必要性を感じた。(長期的な関係に限定)

でも、それをどうやってできるのかはわからない。勇気がない。しかも、言語化するのにものすごく時間がかかる。
だから、まずは脳内で感じたモヤモヤした気持ちを言語化してアウトプットできるようにしようと思った。できるだけ、丁寧な言葉で、そして、早く的確に伝えられるように。

「察しろ」は甘えだ。コミュニケーションに察しろというのは無理である。これからグローバル化の波が押し寄せるのだ。伝えなければ事態が改善することは絶対にない。停滞する。
まずは言うことからはじめなければならない。言っても直らないのなら、それはまたそのときに考えればいい。